昭和44年11月23日 月次祭
                           中村良一


今日、一日お取次ぎをさせて頂きました中に、様々なお願いのお届け、御礼のお届け、様々でございました。御礼のお届けのなかに、四五人しまえましてから、娘が、自殺を致しました、というお届けがありました。何か、穏やかでないお届けです。睡眠薬を五十錠飲んで、ね。医者は、もう駄目だと。お願いをさせて頂きましたら、安心の行くようにお願いをさせて頂こうという事であった。安心が行くようにおかげを頂きましょうと。ね。胃を洗浄致しまして、色々致しましたけれども、駄目だったんですけれどもね。それから、これはもう、不思議な事ですけれども、それから、しばらくしてですね。意識不明になっておる、その、吐き気を催しだしましてね、あの、それから、全部その、吐いてしまうという奇跡。もう、医者もた曲がってしまうほどしの奇跡な事が起こって、おかげで助かった。ところが、助かったのも束の間。それから、その翌日、元気になりまして、ちょっと、そこまで行ってくるというて、サンダルを履いたまま、行方不明になって、もう、三四日になりますです。毎日、お参りをしてまいりまして、もう本当に、一生懸命、お願いをいたしております。やはり、安心が行くようにお願いを致しますという。安心が行くようにお願いを致しますと。本当に、ここんところをですね、私はその、神様を信ずるというか、金光大神を信ずるというか、取次ぎ者、ここで言うなら、親先生を信ずるというか、ね。結局、信ずる稽古を、日頃、本気でしておかなければ、こういう時に、例え、安心が行くように、おかげを下さろうという働きがあっても、そういう風に頂いても、安心は出来ません。ね。今日、夕方、御礼に出て見えられました。おかげで、今日、帰って来たとこう言うのです。もう、主人も、それこそ、毎日もう、泣きの涙で、その眠れんようにあった。昨日は、もう、あんまり泣き疲れてから、一遍、その方は、ノイローゼになられた事がありましてね。もう、ノイローゼに、また、なりよのじゃないかと言うくらいに、今度、そのご心配になるぐらいになった。ね。それこそ、悲しんで、悲しんで、二日間、二日二晩、悲しみ続け通された。奥さんが、ここへ参ってまいりますから、まぁ奥さんは、自分も泣きたいけれども、自分が泣いたら、いよいよ、家の中は、真っ暗だというので、まぁ泣かずに辛抱した。まぁまぁ、お参りをさせて頂いて、かすかにその、安心を頂いて、神様におすがりをするだけ、幾らか、主人とは違う。
ところが、昨日の場合、主人が申しますと。あれはあの、生命保険にかたっとっとろがと言う。かたっとりましたち。それでもう、若いもんのことじゃし、かけておらんけれども、とにかく、調べたところが、今月いっぱいにかければ、それがまだ、続けられるという様な状態であった。そしたらもう、あの保険を掛けとけと。もう、死んだっちゃね、もう、諦むると。あれが、そこに、纏まった金が入ってくると。そして、親孝行してくれたと思うて、諦めると言うて、昨日から、少し、主人が朗らかになりましたち言うてから。保険金がなかなら、もう、いよいよ、悲しみよる。保険金があったおかげで、少しはまた、まぁそういう風に、まぁ結果も聞きまして、まぁ本当に、浅ましい限りだと思いますね。人間と言うものは、その様な事で、安心が出来る。ね。ところが、おかげを頂いてから、帰らせて頂いた。本当にそれを、睡眠薬を飲んだ時と言い、また、今度、何日ぶりに帰ってきた事といいです。本当に、奇跡的なおかげなのですけれども、それまでは、やはりもう、それこそ、親のほうが、生きた心地のせんほどに、心配をいたしております。信心する者は、これから先、どの様な事が起こってきても、驚いてはならんぞとこう。そういう信心の稽古を、一つもしていない。いよいよ、自分の上に、いうなら、ぶっつけ本番という事になってまいりますと、もう、そこに、安心どころか、不安で不安で、悲しゅうて悲しゅうてという事になっております。
これも先ほど、高松つぁんがお届けして。寮の方の、親御さんに当たられる方が、もう、この前の月次祭でしたかしら、お届けがあっとりました。胃癌でしたかね。もう医者は、まぁ絶対に難しいというほどしに難しい病気である。まぁそん時に、まぁ一日も早う安心が出来られるように、お取次ぎさせて頂こうという事であった。今日、お届けに、御礼に出て見えてから、お話を聞きますとですね。もう本当に、間一髪ですね。それこそ、紙一重。胃がちょうど、その人差し指の大ぐらいに、胃がほげとった。だから、そこからね、米が一粒でも、ご飯なら、ご飯粒一粒でも、そこから、出ておったら、もう命は、そのまま、なくなっとるとじゃった。ところがね、本当に不思議な事にですね。何かその、幕がそこに、こうぴたっと引っ付いておった。もう本当に、まぁそれこそ、分秒争うと言ったような時に、手術のおかげを頂いて、まぁ命を取り留めるおかげを頂いたという、御礼お届けである。間一髪である。ね。金銭のお繰り合わせにおいてもそうだ。人間関係の、色んな、恐ろしい難儀な問題でも、そうである。
今日も、夕方、ある方が参って、明日、お導きをしてもらいますとこう言う。大分県から、元、代議士に出られた方であります。それは、家はもう、大変な、まぁ繁盛のおかげを頂いて、息子さんが、二週間おきに、百万円ずつ取りに帰ってくるち言う。それを、みんな、競艇で使うてしまうち言う。二週間おきに、百万円ずつ持って行く。ね。合楽の話を聞いて、そのお父さんが、とにかく、おすがりしてみて、息子が助かるなら、また、自分の家も助かることだし、お参りをしたいから、明日先生が居られるであろうか、確かめてくれと言うことである。明日、私が、一日居りますから。なら、明日参りますからと言うて帰られた。もう、それこそ、金には、子供が百万円といや、百万円の小遣いを、二週間おきにでも、やられるほどしのおかげを頂いておっても、家の中に、その様な悩みがある、苦しみがある。信心を頂いておっても、そうです。段々、おかげだけを頂いてまいりましてもです。本当に、お金は出来ました。家も立派になりましたけれどもです。ね。家庭の中が、思わしゅうない。信心は、家庭に不和の無きが元と仰るけれども、その元の所を頂かずにして、おかげを頂いておるというおかげは、その様な結果にしかならんのです。ね。
先ほど、正義先生が、前講を勤めておりました。二十日の日の菊栄会。今度、日田に行こうという事になりました。お湿りの日でございました。ね。日田で、その珍しい食べ物がある。うなぎのお刺身がある。そら珍しい、こらどんなに川魚の食べ物でも食べれると言うので、まぁこちらへ参りました。それで、十時頃から参りますものですから。いつも、窯元巡りなんかを致しました。けれども、今度は、少し趣向を変えて、一つあの、高塚のお地蔵さん参りをしようという事になりまして、もう、一路、高塚のお地蔵さんに参りました。あのお湿りの中にですね、やっぱ、三々五々、お参りがあっております。お天気が良いなら、どんなに沢山、お参りがあるだろうかと思いました。それこそ、線香が絶え間なしに、どんどん、燃えるように、線香が立てられておる。おローソクが、何十本と言う風に、参った人達が上げる訳ですね。燃え盛っております。私は、最近の、そのまぁ、言うなら、仏様か、神様であろうかと思ったけれど、もうやはり、随分、昔からあるお地蔵様、発効しだしなさってから、最近らしい。ね。そらもう本当に、その、ただ、お寺さんにお参りをするとかね。お宮さんにお参りをするといったような、遊び半分的なお参りじゃないです。もう、お参りをする人が、はまって、一生懸命、拝んでおる。その拝む姿も、一生懸命に拝んでおる。しかも、一生懸命に、高い石段を、登ったり降りたりして、お百度を踏んでおる。ね。いわゆる、一心を立てる。これじゃ、お地蔵さんじゃなくったってです。石の祠を拝んだって、あれだけの一心を立てるなら、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと仰るようなおかげは、必ず立つでしょう。ね。この柱を拝んでも良い。石の祠を拝んでも良い。あのくらい一心にです、ね。お参りをさせて頂くなら、ね。
なかなかその、キャッチフレーズが素晴らしい。ね。いわゆる、うたい文句が素晴らしい。人間の、言うなら、弱点を突いておる。人間は、誰でも弱点を持っておる。ね。その弱点を突いておるのですから、見事に当たった訳です。どういうキャッチフレーズかというとですね。人間のね、その悩み事。一つだけなら、必ず叶えてやろうと仰るお地蔵様だ。人間の願い事の、一つだけなら、ね。どの様な事でも叶えてやろうぞと、お慈悲をもって、お地蔵様が、お告げになったという訳なんです。さぁ人間と言うものは、ね。いわば、金に難儀しておれば、金さえあれば良いと思うでしょう。ここに、百万円の宝くじでも当たるなら、もう他には、何にも要らんと思うでしょう。ですから、その事で一生懸命。もう、医者が見放した病人が、そこにおりますとです。もう、この病気を助けてもらいさえすればと思うのです。様々な難儀なこと。はぁ三回も四回も大学に受験したけれども、滑ってばっかりおるから、親の、それこそ、情とでも申しましょうか。子供のために、それこそ、恥も外聞も忘れて、高塚のお地蔵さんに、どうぞ、合格のおかげを頂きますようにと言うて、一心不乱。しかも、お百度なんか、踏んだ事のないような人が、お百度を踏んで、皆がしておるようにする。まぁあちらへ参りましても、千羽鶴が、それこそ、何万羽鶴という様に、鶴を折って、病院なんかに、病人さんなんかじゃないでしょうか、一生懸命、祈りを込めて、その、お願いの印に、あぁするらしいです。糖尿病の人は、糖尿病、糖尿病、糖尿病と、正確に、きちっとした字を書いてですね。それこそ、何千字と言う、糖尿病、糖尿病、糖尿病と書いて、そこへこう貼ってある。一心を立つればおかげになる。やはり、奇跡が生まれておるだおるう、あれだけの、一心が立つならばと、私は思いました。ね。ここにお参りをさせて頂いて、ただ参ってきて、御理解も頂かんで、ちょいちょいとお取次ぎだけ願って、つっと帰る人がある。ね。折角、お月次祭に参って来とってから、そこほどで、がやがやがや、言うてから、御理解一つ頂こうとしない人達がある。そういう一心でね、例えば、それこそ、高塚のお地蔵さんにもとる様な、結果になりましょう。ね。信心には、この一心を立てると言うことはね。これは、必要なんです。ね。一心を立つれば、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと言う一心。ね。
今朝からの御理解の中にも、それがありましたですね。この一心を出すと、すぐにおかげが受けられるとこう言うてある。神信心も、この一心を出すと、すぐにおかげが受けられる。家を建てるのにでも、棟梁と言うたら一人だ。ね。木でも草でも、芯と言うたら一人じゃ。この一心を立てると、この一心を出すと、すぐにおかげが受けられると、教祖は仰ってるが、すぐにおかげは受けていないと言う事実からです。ね。私は、教祖の神様を信ずる。教祖の神様が仰ったことを信ずる。そんなら、自分達の一心の立て方が、まぁだ、違っておるんだ、間違っておるんだと分らせて貰って、ね。一心の焦点と言うものを、間違いないところに極めていこうという御理解です、今朝の御理解。ね。これは、高度な信心へ向っての一心。ただ、一心を立てれば、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと言うのは、石の祠でも良かれば、何々様でも良い。たまたま、高塚のお地蔵様の場合は、お地蔵様が、やはり、そのご霊徳と言うものも、勿論、ございましょう。ね。けれども、その、人間の弱点を突いておる、そこの所にですね。みんなが、私は、メクラ千人、目明き千人と言うけれども、信心のことに限ってだけは、もう千人の中に一人、本当のものが、おるかおらんか分からんくらいだと、私は思うです。ね。神様でん、仏様でん、結局、同じところは同じだと。登りついたところは同じだといった様な事を言う人ばっかりなんだ。ね。一心を立つれば、わが心に神がござるから、おかげになっておる。まぁなっておるのもありゃ、なっていないのもある。けれども、まぁ押すな押すなという、そういうひとつの、群集心理といったようなものが、その、ご発効なさる元になっておる様である。ね。
よし、ほんなら、そこに、私共の難儀と言うか、悩みと言うか、それを一つだけ聞いて頂いて、果たして人間が、幸せになるだろうか。もう、これさえもらや、何にも要らんという様にあるけれども、それ一つ貰ったら、もう後はどうなるか。ね。教祖の神様が、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと、神様の思いを伝えてお出でられますが、信心して、おかげを受けると言うことは、信心して、真実の人間の幸せというものを頂いてくれよと、お徳を受けてくれよと。あの世にも持って行け、この世にも残して置けるほどしのものを頂いてくれよと。と、教祖様は、私共に、お取次ぎ下さってある訳なんです。ね。そこで、私共は、その信心をです。本気で検討し、見極めていかなければならん。ね。
そこで、私は思うんです。ね。段々、信心を頂かせて頂くようになりまして、段々、分からせていただく事は、ね。巡りの自覚です。ね。どうでも一つ、井戸は清水になるまで。病気災難は、根の切れるまで。病気災難と言うのは、人間の難儀という事なんですね。そういうものの、根の切れるところまで、辛抱せよと。ね。井戸は清水になるまでと言うところまで、おかげを頂けよと言うのです。為には、どうしても、私共が、そこに、ね。めぐりの自覚と言うものを立てなければならんのです。分からせて貰わなきゃならんのです。ね。私は、御礼を申しあげると言い、または、お願いをすると言い、ね。お詫びをすると言い、お礼を申しただけで済んだというんじゃない。いわば、御礼の信心がなされなければいけない。お詫びと言うても、ただ、相すみませんでしたと言うだけじゃない。お詫びの信心がなされなければ駄目。ね。お詫びの信心がなされなければいけません。ね。ただ、お詫びしただけじゃいかんです。お詫びの信心がなされなければなりません。ね。そこの所に、私共が一心を立てる。ね。お詫びのための信心がなされる。ね。勿論、お願いでも同じことですよね。お願いしたからと言うて、やはり、おねがいをするなら、お願いをさせていただく、そのお願いの信心がなされなければならん。
そこでです、ここで皆さんが、信心の稽古をさせて頂いておる時です。ここに、ほんなら、大坪総一郎と言う取次ぎ者を中心にして、ほんなら、合楽の教会の日々がある訳です。その日々の中にです、ね。ここで、いわば、起きて来る事。ここで、皆さんが、おかげを受けておる事の事実をね、もう少し、私は、検討してみなければいけない。本当に、分からなければいけない。ね。
先ほど、正義先生が申しておりました、ね。親先生と、行動を共にさせて、一番、有難いと思うことは、これは、何時の場合でも、天地の親神様が、何時も、親先生任せになっておられると言うこと。親神様が、一分一厘も間違いのない事を、大坪総一郎、その人を通して、感じられるという訳なのである。まぁここの一つの、有難いところは、そんなところにあると思うですね。ですから、ただ、そこで感心をしとると言うだけではなくてです。ね。その、一分一厘の間違いのない働きを、自分達の上にも、現していけ、頂いて行けれるおかげを受けなければ駄目なのです。
私共一行よりも、三十分ばかり、遅れてやってきた。今、今日始めて、その話をここで聞かせて頂いたんですけれども、ね。三十分、遅れてやって来たから、お取次ぎを頂いて折る剣、誰かが、そこでテープを聴きよりなさったんでしょう。たまたま、その朝、私は、正義さんの事をお話をして、その中に、少しばっかり、お話をしておる。ね。それまでは、確かに、一心を立てるという事だったでしょうが。正義さんが、もう二十年も前の話。私は、おかげを頂いて、ね。私はこれが、私の中にある限り、私は、絶対、おかげ頂くと思うと確信を持って言うており、また、今も、それを信じ続けておる事であろう。私共の商売は、どうしても、飲むことが多い。ね。料亭やら、旅館なんかで、やっぱり、宴会なんかも、何時もある。もうほんに、今日は、泊まってでん、いかにゃんごたる場合もあるけれどもです。もう私は、これだけは間違いない。間違いを起してはならない。いわゆる、女性関係だけは、間違いのない事をです。私が、これを、自分の一生の修行とさせてもらう。これがある限り、本当に、日本一を目指させていただきゃ、日本一のおかげを受けられるんだという、一つの確信を持って、お取次ぎを頂いた事があります。その事を、私はお話をした。はぁ神様、お願いします。絶対もう、どげな良か女子から誘惑されたっちゃ、私は、女子に負ける様な事はありませんち言うて、まぁ例えて、お願いするとするかね。けれども、その人んとは、大体が、ほんなこっじゃなかけんで、おかげにならんです。一心を立てきっとらんです。あれが、口ばっかりは、あげん言いよるばってん、実際は、そうじゃ無いことを、神様が知ってござるから、もちっと、腹の底から、そこんところから。ほんなら、正義さんの場合は、それは、神様が、まぁ信じてござると言った様な感じ。ね。だから、これだけはと、信心な出来んけれども、これだけはと言うてその、一生懸命、まぁ頑張らんでも良いでしょうばってんね、まぁ頑張っとりなさる訳です。ね。その事をですね、ここで、ちょうど、それこそ、ほんなら、一時の間に、正義さんの話を、私が、あそこだけにしておる訳です。それを、自分が、たまたま、参り合わせて、しかも、何分間の間に、自分の、いわば、二十年前の話を聞かせて頂いて、そうどころじゃないと思うて、高塚さんに向った。ところが、高塚さんに行って、くじ引きを引いたら、やっぱり、その事が出てきた。大吉の、やっぱり大吉じゃった。大吉の何番かじゃった。ね。酒色に溺れる様な事があってはならんという様な事が書いてある。酒やら色を慎めとこう。やっぱり、大和さんも、同じ大吉の何番かじゃった。大吉じゃった。ところが、こっちんとには、もう色のほうは、もう神様が、安心してござるとじゃろう。色ちゃ書いてなかった。酒だけを慎めと書いてあった。はっはは、ね。
例えば、ほんなら、私も引かせて頂いたのには、これは、私のは、大吉の第一番ち書いてあった。大吉でも沢山ある訳ですよね。その第一番じゃった。どういう事が書いてあるかと言うとね。天地に響き渡る滝の音の如しと書いてあった。天地に響き渡るもの。正義さんにおいてしかり、私は、大和さんにおいてしかり、ね。私の上に、言うならば、一分一厘間違いのない働きをもって、働いて下さっておられる、天地の親神様が、お地蔵様を通して、私は、その様なお知らせを下さったんだとこう思うのです。ね。まぁついでながら、そん時に、あ、もう十時だな、もう少し、お話があるんですけどもね。とにかくね、私達がです、本当にただ、目先目先の、言うならば、私共の願いの、一つを聞届けて頂くという様な、言うなら、浅い信心では駄目である。ね。私共は、信心して、おかげの受けられる信心。それには、私達がです、ね。一つ、本気で巡りのお取り払いを頂かせて貰うというか、ね。お互い、巡りの自覚に立たせて頂いてです。ね。やれ痛や、今みかげをと言うところ、どのような場合であっても、それを、おかげと受けさせて頂けれる信心を頂いて、そこから、すっきりしたおかげを受ける。これは、人間関係だけの事ではない。金銭だけの事ではない。全ての点にです、おかげを受けて行けれる、私はお徳を受けたい。ね。そういう信心を頂きたい。それこそ、二週間に一遍ずつ、百万円ずつ、息子に小遣いをやれるほどしの財のおかげを頂いて、には、代議士にまでなられたと言う方がです。ほんなら、家庭の、そういう問題に、ほんなら、合楽にでも、是非一遍、連れて参ってくれといわれるほどしの難儀を持っておられると言うことから見てです。金やら物やらだけではいけん。ね。その根本になるものはです。私共が、すっきりと、巡りのお取り払いを頂いて、そこから、湧くように生まれてくるところの、おかげを頂かせて頂くという事にある、ね。ですから、本当に、信心の味わい、お取り払いを頂くことの有難さ、ね。
今朝から頂きますように、御教えを頂くという事の有難さ。それを行ずると言うことの喜びと言うものがです。身に着いてこん限り、私は、このような、すっきりとした、おかげにはなってこないと思うのです。ね。どうぞ一つ、おかげを頂きまして、例えていうならです。私は、高塚のお地蔵さんじゃないけれども。一つだけならというふうな意味でなら、私も言えると思うです。こらもう、絶対なもの。どのような難儀な問題を持ってきましてもです。もう絶対、それが、おかげの印が見えてくる。それが、病気が全快すると言う意味じゃないけど、はぁこれが、今日、初めて金光様に参ってお願いしたが、これがおかげじゃろうかと思えるようなおかげが、必ず現れてくる。こらまぁ絶対なんです。ね。こらもう絶対です。だから、はぁおかげ頂いてと言うて、お参りしてきて、始めて、私はお話を伝える。だから、次には、お話を頂き、御理解を頂いて、今日、私が申しますようなところを分らして貰うて、そこから、本当の信心が生まれて行かなければ駄目なのある。ね。人間の、まぁ弱点とでも申しましょうか、ね。いわゆる、人間の願い事の、一つだけなら、叶えてやるぞと仰ったというお地蔵様の所へ、皆が、わっさと押しかける。いわゆる、人間の弱点を突かれる。ね。だから、弱点を突かれた様な事で、頂く信心では、本当なものが、それこそ、千人万人参ったところで、真実の幸せを頂くことは、もう絶対に、出来ません。ね。ですから、ここら辺の所の道理を、一つ、お互い分かって、そんなら、合楽では、そのところのおかげの受けられる信心を頂いて、教えられておるからと言うても、それを頂こうとも、行じようともしなくってはです。やはり、同じことが言えるのじゃないでしょうかね。どうぞ。